小禄 -OROKU- ホームページへ

■ 12ヵ字 ■

字小禄(おろく)

字田原(たばる)

字金城(かなぐすく)

字赤嶺(あかみね)

字安次嶺(あしみね)

字当間(とうま)

字鏡水(かがみず)

字大嶺(おおみね)

字高良(たから)

字宮城(みやぎ)

字具志(ぐし)

字宇栄原(うえばる)

字具志(ぐし)

▼ 参考文献「小禄村誌」▼

(1)沿革

 この部落に初めてやって来たのは瀬長島のアンジナ城(瀬長島はアンジナとも称した。これは砂島の上に丘があり、そこに瀬長按司が城をかまえたので按司のいる砂島から転じてアジナジマ、それからアンジナになったのだろう“豊見城史”)が戦いに破れたので、そこの子孫が逃げのびてここまでやってきたといわれている。しかしながら、実際に部落づくりをしたのは、義本王(第一王統第三代・在位1249〜1259年)の三男と七男の二人だったと語られている。三男が大里の祖として、七男は蔵佐の祖として祭られている。

 瀬長島で戦いがあったのは何時頃であるか、はたして義本王時代より先に瀬長按司の居城があったかどうかは疑問である。豊見城村史(487ページ瀬長城跡)を見ると、瀬長城は瀬長按司の居城であるが、アマミキヨの子孫が豊見城間切に居住するにあたり、瀬長島を足場にしたものと解せられ、いわゆる根拠地であったため、按司時代(12世紀〜15世紀)になっては真先にこの島に小規模の城を築いたものと思われる。その後祭度王時代(1350〜1395年・在位46年)に、その子をして城を増築堅固にして海よりの攻撃に対しての防御と貿易のため使用されたと考えられ、その後中山主に攻略されたとある。

 琉球国旧記には「瀬長按司という者あり。この城を築いて住んでいた瀬長按司は南山王の三男ともいわれ、祭度王の四男ともいわれて判然としない。祖先宝鑑(慶留聞知徳)を見ると「三男瀬長按司の居城は小禄具志村の座神という家にあり、その子七男一女ある長男は小禄松川に行き、次男より相続す。三男は赤嶺へ行き、四男は兼城阿波連村平田という家を相続す」とある所から、具志部落の遠い先祖として示巳られているのではないかと思われる。蔵佐のお宮には三柱の根神を示巳って具志の守護神としていると古老は語る。御嶽には瀬長世、大城世、今帰仁世、首里12カ所に向かって拝所がある。

 門中は、勢頭門中・大里門中・当利門中・仲村渠門中・前大嶺門中・波平門中・国吉門中・外門門中・赤嶺門中・沢低門中・与那嶺門中・高良門中・真境名門中・上原門中・浦崎門中・朝食門中・山城門中・内聞門中・仲門門中・古波蔵門中・上地門中・東赤嶺門中・東当間門中・仲ヌ前門中・当間沢低門中の25門中がある。

(2)戦前の状況

 真南ヌ具志村平原や
  地味ん豊かに寓作ぬ
   働く人も豊かなり

と「小禄間切口説」にも詩われているように、字具志は小禄村の真南に位置し、肥沃な土地を有した豊かな所であった。

 具志部落は小禄村の南にあって平原が海岸の方まで続いており、静かな部落であった。各家庭とも農業が中心で、キビ作が主だった。特産品としてスイカを本格的に作り、那覇へ大量に出荷したのは小禄では具志だけであった。旧暦の4月頃に植付け、7月の盆にあわせて出荷した。島尻郡誌の第三章・産業(50ページ)の条に、昭和6年頃の園芸指導園設置状況の表で、具志にスイカ3、カボチャ6、トマト1、冬瓜1の指導園があったと記されている。部落では、スイカの他にカボチャの栽培にも適した土壌であったのであろう。特に南佐原のイモは味がよくて、那覇の市場へ売りに行くと買い手が多くてすぐ売れたそうである。キビの生産も小禄地域では具志が一番多く、一樽100斤詰めの3000樽以上出荷されたという。副業としては機織りが各家庭でさかんになされ、パナマ帽子つくりも一時は盛んだった。

 この部落からは、小禄村発展のため大きく寄与した上原正得氏と上原義弘氏が出ている。正得氏は初代村長として2ヵ年程、村復興のために活躍された。義弘氏は教員の経験もあり、村長を5回(明治43年・大正9年・昭和7年)14年間と戦後2年の計16ヵ年という永い間、小禄村政発展のため活躍された。

 記録によれば小禄尋常高等小学校、俗に当間学校という赤煉瓦造りの2階建て校舎を造るため、わざわざ台湾まで行かれ、そこの建物を実際に見てそれを基にして遣らせたとの事である。それ程、学校教育には熱心で多くの人々から信頼されていた。後の小禄の校舎を基準にして、金武村の小学校が煉瓦造りを建てたそうである。義弘氏の他にも多くの人材が出て、部落の気質と名を大いに高めたのである。

(3)戦後の状況

 具志部落は広々とした農地を有し、スイカやカボチャの名産地であった。この部落も戟後は4分の3以上が軍用地にとられ、わずかな土地に部落民が生活している状況である。字民は、まじめでおとなしく率先垂範型が多い。戦前も有能な人材が多数出たが、戦後もあらゆる面において輩出し、公務員や会社員・金融機関への進出が目立つ。農業ひとすじの家はほとんどなく、戦前とは逆の状況となっている。

 具志部落の配置は南側に赤ムヤー、北側に御嶽、その中間に位置し盆地である。現在は赤ムヤーも宅地造成され、高級住宅地になっている。御嶽も造成され、戦前からの拝所も改築され、すばらしい拝所が完成するものと期待される。子供達の遊場やゲートボール場、その他運動施設等も予定されているので、周辺住民の憩いの場として有望視されている。

 現在造成中(昭和63年〜平成6年完成予定)の尻川原、自城原、波佐間原、宇地座原、桃原、南佐原、赤辻原、赤碕原約8万5千坪の広範囲の敷地が造成完了すれば、具志部落はますます発展するものと期待されている。

 尚、戦後の貢献者として金城重正氏を挙げたい。氏は那覇市議会議員5期(議長2期)を経て県議会議員2期(副議長1期)を全うし、後進に道をゆずるべく勇退した。


具志自治会
具志地番図(具志1丁目)(具志2丁目)(具志3丁目)
沖縄タイムス「な〜ふぁ歩紀・その28」(平成14年10月22日スクラップ)
具志地区「開発計画の見直しを」まちづくり協(平成14年2月26日.沖縄タイムス朝刊よりスクラップ)
・具志宮城土地区画整理事業「竣工記念碑」(平成7年11月吉日)(碑文)

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