小禄ノ嶽

(カニマンウタキ・クシヌウタキ)
2000.10.28.撮影

▲「殿」(森口公園)より“小禄ノ嶽”を望む

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神名ミキヨチヤマベノ御イベ。所管は小禄ノロ。
クシヌウタキ、カニマンウタキともいう。樹林茂り、神墓多い。
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▼ 参考文献「沖縄百科事典

ウタキ(御嶽)

おがみ山・森(ムイ)・グスク・ウガン・オン・スクなどと呼ばれる聖地の総称。

奄美諸島では、おがみ山・オポツ山・神山・グスク(もとはスク)、沖縄諸島ではムイ・ウガン・グスク、宮古諸島ではスク(今はグスク)、八重山諸島ではオン・ワー・ウガン・スクなどと呼称してきた。

このような聖地に、それらの総称として「御嶽」名称を与えたのは首里王府であろう。

御嶽数を『琉球国由来記』のみから取り出せば、首里29、那覇・泊8、島尻(しまじり)297、中頭(なかがみ)210、国頭(くにがみ・伊江島ふくむ)143、伊平屋(いへや)諸島22、鳥島7、粟国(あぐに)島9、渡名喜(となき)島6、久米島29、慶良間(けらま)諸島37、宮古29、八重山76である。

この分布・密度は地域における当時の開発度、土地生産力を表わしていると推察される。

これらの「御嶽」と呼称されている聖地を由来記に拠(よ)ってみれば、村を愛護する祖霊神・島立神・島守神と、祝福をもたらすニライ・カナイの神、航海守護神などに関係する聖地に限られているようである。

また、これらの御嶽のうち、どの村(明治以降の発生を除く)でもみられるのは村愛護神の御嶽である。

そのほとんどは血縁的古代マキョやハカ部落にみられる。

その御嶽の場所は、遠い時代のその村の葬所と思われ、今でも石灰岩地域に立地している御嶽内には、よく神骨がみられる。

このような村愛護神の御嶽は、そのほとんどが村の背後に立地している村の宗家(根屋/ニーヤー)に接し、村はそこを要(かなめ)として展開している。

村が御嶽側からやや遠く移動した場合は「御通(おとお)し御嶽」が設けられている。

ニライ・カナイ神、航海神の御嶽は、海洋広く望見できる山頂・岬端上・浜辺もしくは村落前面の小島に設けられている。

そのなかで航海守護をもっぱらにしている神は宮古にみられる。

ニライ・カナイ神は雨乞いにも関係し、航海守護をも兼ねているのがふつうである。

とくに王府関係の船舶守護を兼ねた御嶽は、辺戸(へど)の安須森(あすムイ)、今帰仁(なきじん)の久芳(クボー)嶽、伊平屋・久米島・慶良間にみられ、はるかに海洋が望見できる山頂に設けられている。

御嶽祭神の性別が由来記に記されているのは宮古のみである。

29嶽のなかで男女神を祀(まつ)った嶽8、男神のみ81、女神のみ8、不明5(多良間/たらま・水納/みんな)。

それのみでなく、神の機能にもおおよその区別が記されている。

航海神5、航海兼諸願8、諸願7、島守神3、島立神2、不明4(多良聞・水納)。

御嶽の成立由来について、由来記には宮古・八重山の多くの御嶽の由来が記されている。

しかし沖縄の御嶽については、わずかに王府と深い関係があると思われるもののみに「阿摩美久(あまみく)、作リ給フ也、中山世鑑(ちゅうざんせいかん)ニ見ユ」と漠然と記されている。

それらと比べて、宮古・八重山では、たとえば宮古の高津間(たかつま)御嶽「往古、城ノアルズヌシテタ、ト云人、根所卜、云伝也」、竹富島波座間嶽「神名、豊見ヲレ山、御イベ名、ハタト大アルジ、屋久島ヨリ御渡、根本カミトノ、ヲガミ初ル〉などのごとく、比較的その由来が明らかである。

これらや宮古にみられる男女神の性別から推察すれば、宮古・八重山の御嶽成立は比較的新しいと思われる。




▲参考資料「歴史散歩マップ.小禄まーい」▲


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