▼ 参考文献「沖縄大百科事典」 ノロ(祝女) 沖縄で按司(あじ)が出現した8,9世紀ころ以後、按司のオナリ神はノロ(祝女)と呼ばれ、按司の支配地一円の最高神女の地位を占めた。 ノロの性格は根神(ニーガン)と同じで、ただ根神よりも政治的色彩の濃厚な神女であった。 やがて王国の政治的組織に組み入れられて、地方村落を国王や按司の専制的支配下に編み込む役割を果たした。 ノロは「祈る」あるいは「祈る人」「宣(の)る人」という意であり、ノロクモイという場合のクモイは接尾敬称辞である。 『おもろさうし』には「親ノロ」の尊称または美称をもつ高級神女がいくらもおり、神女のすべてがノロである。 その意味では根神もノロであり、宮古・八重山のツカサもノロである。 以上のようにノロは普遍を内包した特殊神で、オナリ神や根神などと同時発生的・同質的なものである。 それが政治・社会の発展とともに按司のオナリ神にたいする特殊的呼称となり、さらに定立した神女組織のなかに組み入れられると、支配者から辞令書をもって任命され、ノロクモイ地や役知を給される「オエカ人」としての義務を負う公儀(こうぎ)ノロとなった。 公儀ノロ制の完成期は中央集権制が確立した尚真王時代で、それによって沖縄社会の祭祀(さいし)は国家的なものになり、御嶽(ウタキ)も国家的機能をもつ神の鎮まる聖所となった。 ただし公儀ノロの出現によって、管下の部落民はノロクモイ地の耕作ほか種々の地代を負担するようになった。 ノロの継承は部落の根屋(ニーヤ)の父系親族集団の世襲を原則とした。 婚姻は妨げられていなかったので多く婿取り婚をおこない、ノロ殿内(ドゥンチ)を婚舎にして聖俗の生活をした。 その継承法は明治時代になって崩れ、嫁入り婚が一般的となった関係もあって嫁継ぎも現われたが、現在でも娘継ぎによる世襲制を維持しているところがかなりある。 神アシャギ 村々において神を招請して祭祀(さいし)をおこなう場所。 本来建物の有無とは関係ないが、そこに建てられた祭祀用建物も「神アシャギ」と呼ばれるようになった。 『琉球国由来記』には「神アシアゲ」と記され、現在沖縄本島では神アサギ、神サギ、奄美諸島では神アシャゲと称される。 また、神アシャギを殿(トゥン)という地域もあり、神女が神アシャギに入ることを「殿ヌブイ(のぽり)」と称している村々があって、呼称からしても祭祀内容からしても、両者は本質的には異名同義と思われる。 神アシャギの呼称は、沖縄本島南部にもわずかにみられるものの、そのほとんどが本島国頭(くにがみ)から奄美諸島の、ノロ分布圏内に限られていることから(『琉球国由来記』参考)、おそらく殿呼称が先に発生したものと思われる。 島尻(しまじり)地方には殿と神アシャギの双方ともみられる村があるが、こうした村では、殿での祭祀は簡略にして、建物のない樹林中の神アシャギと呼ぶ場所で総括した正式の祭りをおこなっていた。 建物は、四方壁のない四柱造りの竹茅葺(かやぶ)き屋根(今ではコンクリート建物に変化)で、沖縄国頭地方では軒がごく低く、奄美諸島では軒が高い。 【語源】伊波普猷(いはふゆう)や折口信夫(しのぶ)は、沖縄にみられる軒の低い様式から、『古事記』にみえる「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」と縁を引く語であろうと述べている。 とすれば、奄美の神アシャゲの軒が高いことが問題になる。 低軒様式について国頭の古老は「牛・馬や飛鳥類が聖なる神アシャギに入らぬように考慮したもの」といっている。 おそらく語源は、家に向かって右前にある、客を歓待する建物をアシャギといっていたごとく、神へ「アシー(飲食物)」を差し上げ歓待する場所の意からの名称ではないかと思われる。 伊平屋(いへや)村我喜屋(がきや)と同鳥尻にある神アシャギは県指定文化財。 |