▼ 参考文献「沖縄大百科事典」 印部土手(シルビどて) 王府時代の図根点。シルビグヮー、ドゥティグヮーともいう。 薩摩は慶長検地で定めた石高を、幾度か増減したのち、さらに1722年(享保7)の大支配のときに自藩同様の支配をおこなう旨検使の派遣を通告してきた。 首里王府はこれにたいし、4〜5年の延期を願い出たため、薩摩は竿入(さおいれ)をおこなわずに居検地で盛増(もりまし)することにした(享保盛増)。 その後、1737〜50年(乾隆2〜15)に王府は印部土手を用いた独自の測量法で両先島を除く沖縄島と周辺離島を検地した(乾隆大御支配=元文検地)。 王府より大里間切(おおざとまぎり)へ出された「御支配方仰渡(ごしはいがたおおせわたし)」(『琉球産業制度資料』)には「今後は境界を紛らわしくしないため印(しるし)を植え、何原何地何胆番(例えば、おつ原(ばる)百姓地1番)と付して取り扱う」(原候文)とあり、土地は一筆ごとに三角法で測量され、1間切200〜300ほど設置された印部土手を起点とし、正確に記録された。 印部土手は田畠(でんばた)印部土手と、田畠と山野の印部土手の2種あるが、その違いはまだ解明されていない。 土手は直径約6尺(180cm)、高さ約3尺(90cm)で、周囲は崩壊を防ぐために根張石で積み回してある。 その上には高さ30〜75cm、幅13〜50cm、厚さ5〜15cmの石碑(仮称ハル石)が立てられている。 碑の多くは二ービヌフニ(微粒砂岩)を整形したものであるが、焼物や琉球石灰岩などで造られたのもある。 碑には土手の所在・原名(ハルナー)と、順序を示す記号が、カタカナか、ひらがな、または変体がなで「い」「ろ」「は」などと大きく彫られている。 記号に続けて「之印(のしるし)」と彫られたものもある。 土手の破損は土地の混乱を招くため、その保護にはとくに気を配り、地方(じかた)役人は年に2度(2,8月)その点検が義務づけられた。 廃藩置県後も内法によって保護されてきたが、1899〜1903年(明治32〜36)の土地整理で、そのほとんどが消失した。 現在では、石碑が100基ほど確認されるが、土手は数えるほどしか残っていない。 |
▼ その他小禄地域のハル石・印部石(シルビイシ)・印部土手(シルビドテ) ・このページ「ユ/川/原」那覇市小禄(ミーガーモー) 「広報なは市民の友」2009年(平成21年)8月 2008年と2012年に整備された写真 ・「ヨ/まへ/原」那覇市小禄(一斑民家敷地内・那覇獣医の裏) 2005年と2013年撮影。 ・「ふ/くし/原」那覇市具志(自治会館近く・小高い丘の上) 2008年撮影 ・「カ/ま/原」那覇市小禄(民家敷地内) 2013年撮影 ▼ RBC琉球放送 創立60周年記念特別番組「国仲涼子がたどる 琉球の石〜地図伝来の謎〜」 ・国仲涼子がたどる「琉球の石」 うるくニッポン(小禄日本)放送 |