旧大嶺集落の精密模型
旧大嶺集落の精密模型
旧大嶺集落の精密模型

沖縄タイムス 1999年06月16日(水)夕刊より

消えた故郷、模型で復元/写真や聞き取りもとに/金城清議さん製作/「子や孫に伝えたい」


 現在の那覇空港敷地内にあった旧大嶺集落の出身者が、1941(昭和16)年当時の「生まりジマ」を手作りの模型で復元した。写真や文献、生存者からの聞き取り調査など、細かなデータを基に再現しており、関係者らは「非常にリアルで詳しい。郷愁を誘うし、子供たちに昔の集落の様子を伝えていく具体的な資料になる」と喜んでいる。旧大嶺集落は、旧日本軍や米軍によって土地を接収された歴史がある。戦争という荒波の中で消えていった集落がよみがえった。



模型を製作したのは、那覇市田原に住む金城清議さん(72)。同じ大嶺出身で、旧那覇飛行場所有権回復地主会会長の金城栄一さん(57)、開業医の長嶺信夫さん(58)らの協力で、今年に入ってから当時の航空写真や文献資料を図書館などで集めたり、大正生まれの人から聞き取り調査を行った。

 金城さんらによると、旧大嶺は半農半漁の集落で、農業はサトウキビが中心、漁業は定置網や追い込み漁が盛んだった。約350世帯。各家庭に井戸があり水は豊富、地面も平たんな砂地で住み心地のいい場所だった、という。

 この土地に飛行場ができたのは1933年ごろ。世の中は次第に軍国主義の様相を濃くしてきた。住民の証言によると、38年には集落内に戦闘機が墜落、子供ら3人が犠牲になるという事故もあった。しかし、かん口令が敷かれ公表されなかった、という。

 41年、国家総動員法によって集落の半分が飛行場の土地に接収された。44年の「10・10空襲」の後、危険だということで、残りの集落の住民らも立ち退きを余儀なくされた。戦後は米軍の飛行場となり、住民のふるさとに戻りたい、という願いはかなわなかった。



 金城さんが作った模型は約500分の1の大きさ。資料を集めて作った地図を基に、かわら屋根やかやぶき屋根、ため池などを再現。標高27mの上ヌモーやそれぞれの路地も細かく作られている。

 清議さんは「立ち退いたときは空襲の方が恐ろしかった。一時避難するだけでいつか帰れる、と思った。しかし、今はもう帰ることはできない。ふるさとへの郷愁がある。子や孫にかつてこんな集落があったということを伝えたい」と製作の動機を話した。

 戦前に接収された土地は現在、国有地。実家を失った栄一さんは「私たちの土地は当時の国の行為によって収用された。本来の所有権は私たちにある。旧飛行場問題として取り残された戦後処理をしてほしい」と話し、模型が行政に対する要請の資料になることを期待した。


















▼ イベントなど

・大嶺海岸観察会


▼ 新聞記事スクラップ・リンク

・琉球新報 1999年06月16日(水)
「失われた故郷復元 旧日本軍小禄飛行場に接収の大嶺集落 金城さんが精密模型で 後世へ貴重な資料」

・沖縄タイムス 1999年06月16日(水)
「消えた故郷模型で復元 那覇空港内の旧大嶺集落 写真や聞き取り基に 金城清議さん製作」

リンク
那覇市字大嶺
字大嶺地バーリー
字大嶺獅子舞

(C) Copyright 2005 たからネット All rights reserved.